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施術と祈りについて

マインドフルネスは顕在意識まで、
メディテーション(禅定)は潜在深層無意識まで

マインドフルネス

昨今、マインドフルネスが流行っています。

マインドフルネスは今ここに意識を全集中して顕在意識の活性化、有効活用を図る試みであり、脳内の雑念妄念を軽減させられます。

たしかに、現代の超情報化社会、超ストレス社会において、自己の癒やしやパフォーマンスアップのテクニックとしてはとても有効だとは思います。

しかし、実はマインドフルネスでは顕在意識までしか使えないので、深遠かつ密なる精神領域にまでは届きません。

お釈迦様も、顕在意識で悟ろうとしても何千万光年かかると仰せられており、つまりは、いくら頭で考えても悟れないと言っているようなものなのです。

密なる潜在深層無意識の領域まで届かせるには、メディテーション(祈り、瞑想)こそが道であります。

ただし、これには実は霊的な危険が伴い、因縁識(七識・末那識)という赤い口に飲み込まれてしまう恐れがあります。

よって、伝燈の法流血脈への結縁と阿闍梨(師)の導きが必要なのです。

そしてまた、霊的に浄まっている霊団・霊壇(サンガ、真如霊界、結界)が必要となります。

でないとせっかくの悟りへの覚悟や実践も、悪因縁という未開のジャングルを彷徨い、悟りへの道が細々と迷路と化して迷いこんでしまうばかりか、最悪の場合、悪魔に魅入られてしまいます。

九識とは

顕在意識や感覚から潜在深層無意識まではよく海の中の氷山の一角に例えられますが、唯識説といって五〜九までの意識(心)の階層があります。

まず、
①五識とは眼、耳、鼻、舌、身(五官)の感覚、いわゆる五感のことであり、

次に
②六識とは、五感を統べる顕在意識、そして、五感のソノサキの第六感(シックスセンス)、すなわち直感、霊感、超感覚的知覚(ESP)やテレパシー、予知能力などの超能力(天道、神様の力)などもここの領域です。

その奥の
③七識は因縁識、末那識(マナ識)ともいって、個我を守り、我欲を満たし、欲望マナスに忠実に自己中心的であろうとする心です。
この末那識に命じられるままに自我を満たすことが自分に正直に生きることだと思い込ませ、それこそが自己実現であると信じ込ませてしまうのが、七識(因縁識)の本性です。

④八識は阿頼耶識(アラヤ識)といい、自他すべての過去無量劫の体験や記憶がすべて蓄積された集合的無意識であり、アカシックレコードといえます。

⑤九識は阿摩羅識(アマラ識)といい、八識(阿頼耶識)が一切の汚れから離れた無垢清浄な状態となったもので、心の根源、すなわち心王(心の王様)、涅槃経(ブッダの遺言)的には仏性であると説きます。 

死は終わりではない

九識

以下は尊敬する歯科医の吉野敏明先生の受け売りに、私の解釈を加えさせて頂く形で紹介させて頂きますので、長くなりますが、どうかお付き合い下さいませ。

輪廻転生の世界観は私は好きで信じますが、価値観は人それぞれです。

でも確かなのは、人間はいずれ必ず死ぬということです。

そういう意味では生物(生きゆくもの)であり死物(死にゆくもの)でもあるのです。

皆さん、死から目を背けがちですが、死を毎日意識すること自体が、実は、真に幸せになることに繋がっていくことを知っていますか?

人間は生老病死(四苦)からは絶対に逃れることができません。

いくら生命保険や介護・福祉保険に入っても、遺産相続対策をしても、本当の安心や幸せには得られません。

先ず、自分の死や死後の世界を意識して、逆算して、自分はどう生きていきたいか、どんな人生でありたいかをよく心に言い聞かせて行動していく、そして死んだ後に残された人々にどんな影響を与えられるのかを意識することが大切です。

私たちは、お墓参りや仏壇、神棚に手を合わせた時に、亡くなった祖父や祖母などの家族を思い出し、あるいは過ぎ去りし思い出の場面や景色を思い浮かべます。

もし、この亡くなった方が生前嫌な人間であったなら、この人たちは亡くなってしまってはいるのですが、いまだに周囲に対して嫌な思いなどの悪い影響を及ぼしているのです。

実際、死んだら終わりではないのです。

死してなお、良きも悪しきも何らかの影響を家族のみならず、他人にまで影響を与えてしまうのです。

そう思えたならば、人生という有限で貴重なこの時間内に、どのように生きていくべきかを思惟し行動しなければならないことに気づきます。

すると、周りや神仏に支えられ生かされている感謝に気づき、他人に愚痴などをいっている暇はなくなりますし、怒りの感情や愚かな行動を犯すことから、はからずも私たちは逃れることができるのです。

だから、自分や周りの人、後進の為にも、生物(生きるもの)としての意識よりも、死物(死にゆくもの)としての意識を高めることが、実は幸せへの一番の近道なのです。

死とは恐れるものでも、逃げるものでもなく、死後の世界や残された方々に対する影響を考えることそのものなのです。

また、私の教えの師はかく言います。

喜んで生き、喜んで死ぬことこそ、信心(幸せ)の秘訣なのです。
そして、喜んで生きるその頂点、極みが死であり、死に甲斐あることが生き甲斐でもある、と。

喜び感謝の心で生かされていくことが、ありのままの幸せを得ていく道なのではないしょうか。

三世(過去・現在・未来)は普通、時系列の中で、一方通行であり、過ぎた時間は決して戻らず、過去から現在、そして、未来へと進むというのが物質世界(目に見える世界)の常識ではありますが、目に見えない密なる祈りの世界においては、過去、現在、未来は実はパラレルワールド(同時並行) であり、現実にあるのは今この瞬間の現在しかありません。

そして、今この瞬間の選択の一つ一つが無数ある同時並行の未来から1つの道を紡ぎ出し、今現在の状況を生み出します。

仏教用語で常住という概念がありますが、これはすなわち、常に住わし下さるみ仏と一緒に生きていく意識、祈りであり、過去のトラウマや先祖の非業の無念の念いも今現在の自分自身の正しい祈りと実践によって、佳き方向に書き換え可能であり、先祖と一緒に越えていくことができます。

そして、自他の未来や子孫にも佳き可能性を選択し展開していくことができます。

太古の祈り

太古の祈り

我々、現代人は太古からあり、もともと持ち得ていた大自然とつながるチカラ、直観力、霊感、予知力などの超自然的なチカラ(シックスセンス)をどんどん失い続けています。

現代科学重視、すなわちエビデンス偏重な世の中において、理性ばかりが重要視されているので、感性やソノサキの信性や超自然的なチカラが退化してしまっているのは無理もありません…

まだ人類が農耕生活や狩猟生活をしていた時代においては、加持祈祷やお祓いといったお祈りが、実は本当に大きな効験があったといいます。

事実、宗教や祈祷、お祓いなどは、もともと医療や政治の一部でした。

なぜ、祈祷やお祓いがよく効いたかと言えば、当時の人間や自然界も地球もすべてが、現代と比べると、波動的(量子力学的)にとても綺麗で動物も植物も自然もすべて発する波動には異常な周波数(ノイズ)が無かったからです。

ところが、現代は工業化や情報化が進み、TVやラジオ、送電線、原発、電子レンジ、スマホなどの電子機器、電磁波も今は5Gの時代であり、世の中は異常な電磁波だらけです。

それにひきかえ、大昔はすべてが綺麗な波動でした。

四季折々、山川など大自然の波動、太陽と月の波動、その月の引力による潮の満ち引きの波動があり、波動のノイズすなわち邪気を、雨風や台風、洪水、津波、落雷など自然災害が全て流してくれていたのです。

台風や津波は人間にとっては恐ろしく大変な被害をもたらしますが、一面には邪気、悪しき波動を祓い浄めるのです。

これが台風一過の正体です。

神社でお祓いをするのも、手を水で洗うのも、お寺でのお護摩もすべて邪気を浄める為のものです。

また、自身の心の中の悪や邪気、執われを浄めていくのがお護摩の本質でした。

外科医が手術前に手を洗うのも、清潔なオペ着を着るのも、すべて同じです。

もちろん、オペ前に手洗いするのは、感染しない・させないという為もあるのですが、実は昔から邪気を払い、患部に邪気を入れないために手を洗っていたといいます。

ところが、現代では邪気=ノイズを体内にまで入れるようになってしまいました。

食品添加物、人工甘味料、調味料、遺伝子組換食品などの自然界にはない化学物質です。

化学物質は自然界にはない、量子力学的ノイズを持っています。

化学物質だけ測定すれば、問題ないという化学者もいますが、問題は量子物理学的波動なのです。

この状態では、お祓いのレベルでは邪気をなかなか祓えません。

神道やキリスト教の祈りもあまり通じにくくなっています。
ただし、真如の祈りはそれでも通じていきます。

どんなに敬虔なキリスト教徒でも、どんなに真面目に禅定(瞑想)している仏教徒でも、コンビニ食や加工食品を食べていたら、清涼飲料水を飲んでいたら、もう本末転倒です。

降圧剤・高脂血症の薬・糖尿病の薬・睡眠導入剤・鎮痛剤・ステロイド、抗うつ薬などを飲みながら瞑想しても実はあまり意味がないのです。

お祈りの前にやることは、お菓子・化学物質・電磁波・薬を飲まない、取らなくてもても良い生活に改めることです。

そして、家族やご先祖様のことを大事にすることです。

また、食事をする前に手を洗うのは細菌感染をするためだけではなく、本質的には手の穢れという波動を除去するためです。

外科医がしゃにむに手を洗うのは波動上において全く同じ意味があります。

要するに悪い波動を回復させたい患部へ自分の邪気の波動を送り込まないためなのです。

経験的に滅菌グローブをはめる前に手を遮二無二洗って消毒することに波動的な密なる意味が実はあったのです。

先ほど言ったように、神社でお祓いをするのも、お寺でお賽銭などの布施(喜捨)、お護摩をするのも浄めのお祈りであり、自他の悪い念波、波動を捨てることなのです。

現代社会では、食品添加物・電子レンジ・コンビニ食まみれで毎日敬虔にお寺や神社、教会に行っても、なかなかよいご加護は得られないかもしれません。

また、ご利益を求めるお祈りは、実は問題(因縁)の先送りであり、たしかに神様はその場である程度叶えてくれるかもしれませんが、本質的な霊性の向上や因縁切りには繋がりません。

なかなか難しいですが、まずは、正しい食事・正しい咀嚼・正しい入浴・正しい睡眠、正しい運動をし、そして正しいお祈り(感謝、謙虚、反省、覚悟、素直)をしてから、お寺や神社などに行くことが本来的には大切ではないでしょうか。

現実問題、出来てなくても、させて頂こうという心持ちだけは持っていきたいものです。

真の医道は施療と祈りが表裏一体

施療と祈り

施術中は基本的にはしっかりと集中しなければなりません。

呼吸法を正さないと手先がぶれますし、筋力が弱ると足腰がぶれます。

私は、毎日読経、禅定(精神統一のため朝夕のお祈り 随時、接心修行)、随時お参り、掃除など奉仕活動、簡易な整理体操(スワイショウなど)を行い、精神と肉体のブレやズレを整えています。

プロスポーツ選手もよく当院にいらっしゃいますが、プロスポーツは爽やかで、人々に感動と夢を与えますが、そもそもは自分の為に行っていることとも言えます。

医療者は自己犠牲どころか家族を犠牲にしてでも他人の為に行い、サポーターや聴衆もいないなか、誰も褒めてくれないし、応援もない孤独な生業と言えます。

なので、プロスポーツとは違う世界で、逃げず、ぶれず、言い訳をせず、高速の速さ(アジャストメント)とミリ単位の正確さと、生まれたばかりの子供を慈しむ以上の慈悲の祈りが必要なのです。

その慈悲があるから、誰からも褒められなくても認められなくても感謝されなくてもできるのです。

母親が痛い思いをして子供を産み、自分の体を資源として母乳を作り出し、自分の時間を割いて育児をする。

この愛は無条件であり、子供からも感謝という見返りも求めません。

本来、医療者の患者さんに対する慈愛とは、この母親が我が子に対する愛情と同じです。

それを大人の赤の他人で心身の病気を持っている者を愛するのが慈悲です。

母親が痛いの痛いの飛んでいけ、というと子供が泣き止んだり、親が手を子供の患部に当てる(手当て)と痛みが軽減する事実があります。

子供が学校に行くときに『気を付けてね』と親が言うと登校時の事故率が下がる統計があります。

これと同じ慈愛の祈りを毎日赤の他人に行うのが医道と宗教です。

慈愛がなければ、ただの何の変哲もない手術、施術であり、医道に基づく治療が行われなければ、改善率は有意に落ちるといいます。

数値や科学、マニュアルを超越し、その人が治りたいという生命エネルギーをいかんなく発揮させなければ、本質的な真の治癒は得られません。

塩や砂糖を何グラムでどの順序に入れる、というレシピだけでは極上の料理ができないのと同じで、本質的にはレシピやマニュアルだけでは片手落ちなのです。

医道は患者さんに対する慈悲がなければただのマニュアルに成り下がります。

かつて、医療は医道に基づいて行われていました。

医道とは師と弟子において、一子相伝で伝わる密なる教えであり、医道の根本は哲学という思想によって子弟間には絆がありました。

古代ギリシャの医師団コス派のヒポクラテスの誓いが有名です。

また、さらに古い、世界最古の医学書は中国の『黄帝内経』です。

その書の中で
『素問』が基礎理論とすると、『霊枢』(鍼経の別名)は実践的、技術的に記述されており、
「昔の人々は煩わしさが無く、自然にとけこみ生活をしていたから、祝由(しゅくゆう)つまり巫の祈祷によって精神的な影響だけで、病気は治ってしまったが、今の様に以前に順わず、むやみな生活をしていれば、はじめは小さい病気でも、大病となってしまうから、祝由でもどうにもならない」とあります。

この太古の紀元前後の時代ですら、医道が治療と祈りに分裂してしまっていることを嘆いているわけであるから、現代のエビデンス一辺倒の医学では、治せない病気だらけになるのは当たり前に思えてきます。

翻って現代では、高血圧も高脂血症も糖尿病も患者数は増え続け、糖尿病にいたっては、50年で50倍も患者が増えているのです。

医学という学問で、科学とマニュアル(ガイドライン)で治療を続けた結果がこれです。

薬で症状や数値をコントロールするのは対症療法であり、内実、病気は治っていないのです。

古代中医学においてもいろいろな治療科に分類されていました。

明の時代には十三科の分類方法があり、大方脉(内科)、小方脉(小児科)、婦人科、瘡瘍科(皮膚科)、鍼灸科、眼科、口歯科、咽喉科、接骨科、傷寒科(感染症)、金鏃科(戦傷)、按摩科、祝由科などである。

一見して、現代西洋医学の分類とほぼ同じなのですが、この中の祝由科は現代医学には存在しません。

同様に、古来から日本でも、律令時代に呪禁科という医学部門があったといいます。

この呪禁(じゅごん)とは、「抜刀して刀を持ち、呪文によって一定の作法をおこない、病気や災難を防ぐ、道教系統の方術(九字切りなど)である」とされ、陰陽道や修験道にも影響を与えています。

この祝由や呪禁が、さきほどの「痛いの痛いの飛んでいけ」、つまり患者さんへの『無条件の慈悲』なのです。

祝由も呪文を唱えて病気を治療する方法です。

古代中国の修煉法の書物『轉法輪』の中には祝由に関する説明があり、患者を治すためには祝由が必要と記載されているそうです。

呪禁を修習するためには、修験道や密教を修めなければならないほどの修練が必要であったとのことなのです。

一方、翻って現在の日本の医療界は、学者が治療をしている状態です。

芸人には芸の肥やしである苦難の経験がなければ、芸を極めることができないのと同じで、施術家も苦難の経験がなければ患者愛である『祝由』はなかなか生まれないと思います。

ところが、あることをきっかけに、この医道によって行われていた治療を、誰が行ってもある確率論によって治癒に導く、疫学をもとに、科学によって治療をする、という思想が1850年代のアメリカから広められてしまいました。

広く世界中に洗脳されてしまい、現代では国語数学理科社会の偏差値が高い者が、この『医学』に基づく『医療』を行い、頭の良い=偏差値の高い高学歴な者が医療を行うのが質の高い医療である、という常識が形成されてしまいました。

もちろん、現代医学をすべて否定するわけではありませんが、本来の本質からはかけ離れている現状には由々しきものがあります。

結論として、医学はただの方法論としての医療だけではなく、本来はまず慈愛ありきの医道であったのです。

祈りは意(生)宣り

祈りは意(生)宣り

古来より、私たちが続けてきた「祈り」に実は素晴らしい効果があります。

アメリカの病院で、大変興味深い実験が行われました。

心臓病患者393人に対する実験で、「他人に祈られた患者」は、そうでない患者に比べて人口呼吸器、抗生物質、透析の使用率が少ない、ということが分かりました。

しかも驚くべきことに、西海岸にあるこの病院に近い場所にいたグループからの祈りは、もちろんのこと、遠く離れた東海岸からの祈りでも、同様の効果がありました。

そして、何よりも興味深いのは、患者さんたち本人は自分が祈られていることは、全く知らなかったということです。

憎い相手に見立てた藁人形を釘で打ち込む怨みの念とは真逆の行為、すなわち相手の幸せや病氣平癒を念ずるのが「祈り」です。

祈りの「念」は、諸刃の剣で、病氣を治す力もありますが、反対に病氣にさせてしまうほどの力もあります。

自分の口から出た言葉は、自分が一番早く、多く聞きます。

自分の口の一番近くにあるのが自分の耳だからです。

そして脳(潜在深層無意識)は、人称を判別できないので、他人に言っているつもりでも、自分に向けて言っていることと同じになる、といいます。

祈りも同じで、相手の幸せを願うのか、相手の不幸を願うのか。

誰かを恨み呪っているつもりでも、実は自分を恨み呪っていることになります。
人を呪わば穴二つ、です。

どんなときも、人の幸せを祈る人でありたいですよね。

祈りとは意(い)を宣(の)ること。

つまり、意志(心)を宣言することです。 

また、生(生きる・生き方)を宣ること。

すなわち、生命(いのち)を宣言すること、生き方、生き様を宣言することです。

あるいは、日本神話に記されているのは誓約(うけい→祈い・誓い)です。

神仏の前で、お誓い・お約束をすることであり、決して、お願い事を神社にしにいくのが、祈りではありません。

「ただただその時々の決意を述べる」のが、まさに「祈り」であり、「誓約」なのです。

ピンチはチャンス 解く鍵は信じる勇気

ピンチはチャンス

自分が苦しいときにそれをアピールしても何も起きません。

同情は起きるかもしれませんが解決は生まれません。
むしろ苦しい時ほど、困難な時ほど、明るく伸びやかにして人が集まるようにし、その中から解決力のある人を自分が選べるようにするのです。

これをよくピンチはチャンスといいます。

勇気と地獄は表裏一体。

地獄の裏返しが天国(浄土)ではありません。

勇気の先に解決があり、その先には天国(浄土)ではなく、新たな困難が待っているのです。

天国(浄土)とは困難を繰り返し繰り返し乗り越えていったその先にあるのです。

逃げるから地獄になるのです。

勇気という信じる心(信性)をもって、師(阿闍梨)の導きの中に、精進していくと因縁識を一気に飛び越えられ、仏性(心王)を覚知できるのです。

実践なく観念だけで悟ろうとしても因縁識(自分可愛い)という強固な壁にはね返されて越えられません。

①理性(考える 左脳的)と
②感性(感じる 右脳的)の
ソノサキ(因縁識を越えた密なる祈り・悟りの世界)へと越えて行く(止揚、アウフヘーベン)ためには、
③信性(信じる勇気の祈り)が唯一の鍵です。

信じる者は救われるのは真実です。

では何を信じるのか。

それは智慧と慈悲の涅槃真理、あるがままの真実(a truthからthe truthへ)、真如(仏様の実体、あるがままの真実)、まこと(真、誠、実、信)を信じるのだと私は思惟します。

これこそが道と信じます。

ご精読、ありがとうございました。

IZUMIカイロプラクティック
院長 泉山耕一郎 拝

 

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