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本編 祈りの本質とは
1 引き寄せ(類友)の法則やポジティブ思考の限界
これまで古今東西、多くの書籍や自己啓発、宗教などにより良い運命へと転換するために、引き寄せの法則をもとに、心の中に明るく前向きな、ポジティブ思考が推奨されてきました。
心の中にポジティブな念を抱くための様々な技法が述べられ「成功を強く念じる」「成功目標を言葉で周囲に語る」「成功イメージをありありと思い描く」などの自己暗示的なテクニックなどが代表的でありましょう。
しかし、多くの人々がこうした心の中に「ポジティブな念」を抱こうと思っても、なかなか上手くいきません。
なぜかと言いますと、私達は誰もが過去の人生において、家庭内の問題、受験の失敗、就職での挫折、職場での人間関係の軋轢など、多くの「ネガティブな体験」を持っているからです。
そのため、その体験が「自分はどうせ駄目だ」「運が悪い」といった「ネガティブな念」として、無意識の心の奥深くに沈殿しているからなのです。
さらには、世の中に溢れるネガティブな情報も心の奥底に蓄積し塵も積もれば山ともなっております。
よって私達が、表在意識でどれほどポジティブな念を抱こうとしても、この無意識に沈殿したネガティブな念が、それを打ち消してしまうため、心をポジティブな念で満たすことができないのです。
したがって、まずはポジティブな想いを念ずる以前に、人生のネガティブな体験から生まれた潜在無意識に強力に刷り込まれた心の奥底のネガティブな念(不安 恐怖 後悔 自責 他責 不満 怒り 妬み 悲しみ 嫌悪 憎悪 結果への執着 マスト思考)を打ち消していくことこそが必要なのです。
とはいえ、これは口で言うほど簡単なことではありません。
人間的な努力だけでは到底追いつかないのが現実です。(よって後程述べる密なる修行が別途必要になります。)
というのも、ネガティブな念は、人生というものを「対立観(二元的)」に捉えているかぎり、決して無くならないからです。
すなわち、人生を、幸運と不運、幸福と不幸、成功と失敗、達成と挫折、勝利と敗北といった形で、ポジティブな出来事とネガティブな出来事に分けて考えるかぎり、表面意識でどれほど強く、幸運、幸福、成功、達成、勝利を思い描いても、潜在的無意識には、必ず、その反対の、不運、不幸、失敗、挫折、敗北といった念が生まれるため、心の中のネガティブな念は、決して消えていかないのです。
例外的に無邪気でまっさらな幼な子のみがこうした対立観に支配されません。
では、どうすればよいのかと言うと、まずひとつには、人生のすべての出来事に「深い意味」があると信じ、その意味や与えられた使命を見出だすことによって、すべての出来事を受け容れ、感謝で全肯定することです。(対立観でなく一体観 二にして一 不二一如)
実際、人生を深く見つめるならば、幸運と不運、幸福と不幸、成功と失敗、というものは、それほど簡単に分けることはできません。なぜなら、私達の人生においては、しばしば、幸運は「不運な出来事」の姿をしてやってくるからです。
昔から「人生万事塞翁が馬」と語られてきたことであります。
そして、この「すべてを受け入れ、肯定する」というお委せの祈りには、さらに深い世界があります。
かつて、心理学者、ヴィクトール・フランクルは、ユダヤ人であったため、ナチスによって強制収容所に投獄され、両親と妻を殺され、自身も殺される寸前に奇跡的に生還するという過酷な人生を与えられましたが、彼は、後年、『それでも人生にイエスと言う』という著書を遺しています。
そこには、一つの極限の覚悟があります。
自分の人生が、いかに逆境や挫折に満ちたものであっても、それでも、それは、自分だけに与えられた、かけがえの無い人生。
その人生の全てを肯定し、感謝し受け入れるという覚悟であります。
そして、もし私達が、その覚悟を定め、自分の人生を本当に愛することができたならば、そのとき、人生を二つの価値に分ける言葉、幸運と不運、成功と失敗といった言葉も、自然に消えていきましょう。(対立観から一体観へ)
そして、そのとき、目の前の人生の一瞬一瞬が、静かに輝き始めるのです。
2 全てを受け入れ肯定するお委せの祈り
この世とあの世の真理は因果応報、すなわち善因善果、悪因悪果と教えられます。
目に見えない世界では徳(ポジティブカルマ)と因縁(ネガティブカルマ)の相剋があるものと信じます。
自分本位に執われて願望の成就ばかりを表面意識で祈っても、潜在無意識下には天邪鬼のように正反対の念が刻まれてしまい、結果的には叶わないことが往々にしてあるものです。
したがいまして、願望成就の祈りから受け入れ、お委せの祈りへと徐々に高めてゆかれることが現実的にはよいのではないでしょうか。
お委せの祈りとは、力強く握りしめた執れ(自分本位の欲望、不安、恐怖、後悔、自責、他責、不満、怒り、嫌悪、憎悪、結果への執着)を思い切って手放して、良いことも悪いことも何事もすべて感謝で受け入れて、先を明るく見ながら、大いなるみ仏の慈悲(大愛)のみ心のままに生かされる心と申せましょう。
そして、人を責めない、善悪のジャッジしない、対立観(分離思考 分別)を越えて、あるがまま(真如)に生かされるという境涯といえます。
そうなると、今まで思いもしなかった新たな気づき(仏智)を、先ほど手放して自由になったその手に頂いていくことができるようになると教えられます。
感謝が深まれば深まるほど反省思惟できるようになり、謙虚でいられるようになり、成ろうが成るまいが愛他(慈愛と利他) に生きる覚悟が定まりましょう。
そして、愛他の実践をすればするほど理性(左脳 思考)と感性(右脳 感情)を越えたところの祈りの世界(一体観)へと入れて頂けるようになり、個我(我執)がなくなってまいります。
さらには、真如一如(自他不二一如 みんなひとつ 私はあなた あなたは私 無我 一体観)の深い祈りの世界に入れて頂けるようになると、因縁の繋縛から解き放たれて真に自由で満たされた自然体、すなわち泰然自若の状態になり、心から安心立命を得ていくことができると頂きます。
3 映画マトリックスの本当の意味
以前、大ヒットした映画マトリックスを覚えていらっしゃいますでしょうか。
実は、あの世界観は、頭の中の精神世界を表していて、今私達が生きているのは真の現実ではないということを教えてくれているのです。
私達は仮想現実・マトリックスに繋がれたバーチャルリアリティーを現実だと思い込んで生きているのです。
すなわち、今見ている世界はありのままの世界(真如)ではなく、 残念ながらマトリックスによって書き換えられ歪められた世界であり、マトリックスに出てくる上から下に流れ続けるプログラムはまさに人間の思考そのものを表しており、一時も休むことなく流れ続ける思考や言葉の洪水のようです。
これまでの人生で培ってきた常識や思い込み、価値観や先入観、不安に希望、それらの思考によって紡がれた絶え間ない独り言のストーリーが、そのままマトリックス(仮想現実)となって目の前に現れているのです。
したがって私達、多くの人間が見ているのは、実はあるがままの現実(真如)でなくマトリックス(思考プログラムの蓄積)によって脚色された物語、人生劇場なのです。
自分で被害者を演じて悲劇の主人公でいることを望み、目の前にある状況を自分を苦しめる要因として意味付けていたのです。
そのことに気づかないでいることが苦であり、 真の現実を忘れてマトリックスに繋がれっぱなしで幻想を生き続けるから苦しいのです。
マトリックスに気づき、仮想現実から離れて夢から醒めることが出来たなら、その苦から解放されます。
すわなち、本来の世界の姿(真如)を歪みなく捉えられるようになります。
それが心の目覚めの体験なのです。
エゴつまり自我、幻想の自分、その正体は固定化された思考であり、様々な心癖の集積や個という概念、自分があるという錯覚があるが故に恐れが生まれます。
私という独立した存在がある、自我というこの錯覚・思い込みは有身見といい、六大煩悩のひとつであり、マトリックスのエージェントのことなのです。
自分・個我を守る思考による自己防衛(ファイヤーウォール)や、我という壁すなわち自分と他を分ける分離思考こそが、実はマトリックスのエージェントの正体なのです。
我すなわち無知、 固定観念、執われ、エゴのレッテル、自分の意思を離れて、思考パターンが自動的に独り歩きすることによって、本来の自分(仏性)を見失い、その自動プログラム思考パターンに人生の主導権を握られてしまっているのです。
個我を自分だと思い込んでしまっているのが私達の姿なのです。
存在全体からの分離を目論み、必死に個というパーソナリティ・アイデンティティを確立したがるのが我であり、何者かになりたがるのがマトリックスのエージェントなのであります。
マトリックスから目覚め、本当に仏性を開発できた人は、自分は何者でもなかったことに気づくといいます。
だから例え、並外れた神通力があろうともそれを押し付けたりひけらかしたりしません。
元々が何者でもない存在だからどうあがいても何者にもなれないからです。
この不可能にチャレンジし続ける空回りこそがお釈迦様の仰る苦なのです。
何者かになろうと頑張れば頑張るほど我が拡大し、自分や周囲を苦しめていきます。
本当は他の何者かになろうなんて我を張ろうとしなくていいのです。
我(マトリックスのエージェント)は自分を存続させる為ならどんなことでもします。
常に個であり続けようとし、決して全体すなわち何者でもない存在本来の姿へ溶け込もうとはしません。
私達は自分が幻想であることに気づいておらず、我という名のエージェントは私達が幻想、夢から醒めることを恐れているのです。
それゆえに、恐れから多くの人は欠陥を埋めてあげますよという方法論(テクニック、ノウハウ、How to)に飛び付いてしまいます。
実は、方法論(ハウツー)は本質に至るまでの方便としては有効なのですが、そこに本質はありません。
カルトなど似非宗教や悟りセミナービジネス、ニューエイジなどのスピリチュアルは我(エージェント)の恐れにつけこんで脅し不安や恐れを煽り、 不安や苦しみを補う為の何かを付け加えようとします。
自分がこれまで苦しんできたのは、不満を抱えていたのは、その人生に何か欠けていたからではありません。
幻想の自分、固定観念に飲み込まれて本来の仏性(善なる個性)を発揮出来てなかったからです。
真我、仏性とは命そのものであり、ありのままの姿でありますが、私達は我の壁に阻まれて、その命の輝きを発揮出来ていません。
すなわち、本当の自分(仏性)に気づいていないのです。
自分という存在は本質的(仏性的)には完全なのですが、現実の物質的(肉体的)には不完全なのです。
それを頭で理解するのでなく心で肯定し受け入れることではないでしょうか。
幻想の、思い込みの自分から離れ、ありのままの状態(真如)であるためには、さらには、前述の深層無意識下に刷り込まれたネガティブな悪念妄念の集積(因縁)を浄めていくには、密なる修行や愛他の実践が必要となります。
必要となると言ってもそれは物質や新たな知識を得ることではありません。
ありのままの自分、すなわち仏性を磨き出していくことであり、私達本来の仏性を存分に発揮出来るように、まずは仏性を妨げているものがあることに気づくこと、そしてそれを無条件に手放すことが大事です。
この気づきを頂いた上に、気づいただけに留まらず、忘れてしまわないように、真理の伝道や愛他の実践をして、この気づきを日々更新し、生涯、心魂に刻み続けることが大切ではないでしょうか。
(お釈迦様も悟ってから生涯伝道の道を歩まれました)
そして、その先の無我の境地とは、自他を分ける壁がなくなり、あらゆる存在とひとつとなり私という独立した概念がなくなることなのだと信じます。(自他不二一如)
我という名の因縁の壁がなくなったとき、壁の内側にあった仏性(本当の自分 内なる仏)と壁の外側にあった大いなる仏(法身)が1つとなり存在本来の姿となり、自分の意味が我(分離思考)から真我(如来我)へ逆転すると頂きます。
これが真如一如(入我我入)なのだと信じます。
4 今この瞬間、私達は本当は幸せで在れる~目的地思考の罠~
私達が陥りやすい目的地思考とは、今足りない何かを得ることによって、きっと今より幸せになるであろうという考え方であります。
すなわち、今、幸せであることを選ぶのでなく何かが叶った暁に幸せになろうと自らお預け状態に入ってしまうことです。
本当は今すでに本質的に幸せであり、実は救われているのだと感謝で気付けるかどうかが分かれ道となりましょう。
よく言われる引き寄せの法則からしても、今幸せでいるからこそ幸運な状況になるのではないでしょうか。
目的地思考の根は、〜が足りない〜がないという現状を否定する思いであるからこそ、足りないものを追い求める(加える)より、いらないものを手放すことが大切でありましょう。
そこで初めて両手が自由になり新たなものをつかめるのです。
そして、今まで当たり前にしていた今あるものに対して、改めて有り難いと感謝に気づいたときに心は変わります。
実はすでに求めているものは今ここ、この瞬間の自分の心の中にあったのです。
華厳経や涅槃経にも説かれていることで、初発心時便成正覚といって、悟りへと向かう心を起こしたその瞬間、実はその人は悟りのなかにいる、というもので、悟りへの心を起こすことで、たちまち仏の不思議な世界が現れるのだと頂きます。(ブッダモーメント)
逆に悟りへの心を忘れると仏の世界はたちまち消えてしまいます。
過去は過ぎ去ったものだからもうありません。
未来は未だ来ないと書いて未来であるので、まだありません。
真に存在するのは、今ここ、この瞬間しかないのです。
そう、時は今なのです。
5 マインドフルネスの限界、そして、その先の祈りの世界
前編(健康への八正道)でマインドフルネス(瞑想)について触れましたが、実はこれは信仰性や精神性(霊性)を排除して、呼吸や集中に特化したストレス軽減やパフォーマンスアップのためのただのテクニックと化してしまっており、心(霊性)が置き去りにされてしまっているのが実態です。
よって、これだけでは本当の祈りや霊性(命)の本質には触れることができなくなっています。
マインドフルネスの真の本領は、実は目先の利益のテクニックではなく、その先のハートフルネス(One Heart)なのです。
すなわち、自分や相手の気持ちを感じ、心をつないでいくことではないでしょうか。
前項でも触れましたが、マインドフルネスとは、漢字で”念“(今の心)と書きまして、心とはとても多様な意味を持ちます。
形のない思いや気持ち、感情であると同時に、心臓という肉体でもあり、さらにはマインド(精神 意識 思考)であると同時に、ハート(心 心臓 感情)やスピリット(霊魂 霊性)という意味も併せ持っています。
おさらいですが、五感をフルに使うことで、自らの体験を通して世界とどう繋がっているのか。
それを教えてくれるのが、マインドフルネス(瞑想)だと思います。
体内感覚に意識を向けて”今の自分“を把握し、体から得た感覚と感情を結びつけていくのです。
ガチガチと体を緊張させるよりも、リラックスして流れに身を委ねることで自由に心身が大いなる何か(サムシンググレート)と温かく深く繋がっていく様を体感することができます。
心に抱くストレスを和らげ、怒りや不安をなだめるのも同じなのだと体と心の連動や繋がりを感じていくものです。
さらに、マインドフルネスは本来は同時に「ハートフルネス」であります。
ハートをフルにするもの、つまりストレスを和らげ、本質的には思いやりの愛他の心を修め養うものなのではないでしょうか。
例えば、救急車や消防車のサイレンが鳴ったら、仕事をしていても、入浴中であったとしても家事の最中であったとしても、それぞれに行っていることをいったん中断して立ち止まり、胸に手にあてて「どうか大丈夫でありますように」と心のなかで祈ります。
そして、サイレンの音が完全に消こえなくなるまでそれを続けるというのはどうでしょう。
さらに、毎日の生活の中で少しの時間でも立ち止まる時間を設け、まずは支えてくれている身近な周りの方々に感謝し、自身がお世話になっているコミュニティーや地域社会、日本という故き美しい国へ感謝し、そしてコロナ禍や戦争、貧困を越えていけるようにと世界の平和を願い、環境破壊にあえぐ地球の痛みを共に感じ、さらには宇宙や過去の命から現在の命、そして未来の命へと想いを馳せ、最後に自分へと優しさや喜び、感謝を無限に広げていく祈り。
これこそが真のマインドフルネスなのではないでしょうか。
マインドフルネスはよりハートフルネスへ。
これがマインドフルネス先端国の米国で主流になりつつあり、教育の現場などでも生かされているマインドフルネスの実態と言われています。
マインドフルネスとは、ただパフォーマンスを上げるために集中力を増すためだけ、感覚を鋭くするだけのものではありません。
皆と一緒にOneHeartのお祈り(マインドフルネス瞑想)を行ってお互いを“今ここ”に存在させ、互いの心のつながりを取り戻すためのものなのです。
そして、さらにはその先に、神仏へとお仕えしていく実践信心や信仰といったより深い祈りの世界が実はあったのです。
愛他(慈愛と利他)を無限に祈る実践の世界がそこにより開かれてまいります。
6 潜在深層無意識下の因縁の集積が根本原因
因縁論ですが、因果の連鎖にはきりがなく、原因は結果を生み、その結果はまた原因となり、また次の結果を生んでいくという連鎖が続いていきます。
よって目に見える原因を遡っていってもきりがありません。
言うなれば真の根本原因というのは終極的には目に見えない密なる心(霊性)や因縁、潜在深層無意識、神仏などの宗教領域の話となりましょう。
我々人間が人間業(にんげんわざ)で深掘りできるところはせいぜい原因の浅瀬の部分までであり、それ以上の深さは神業(かみわざ)の領域でしか掘り下げられません。
本当に選ばれたゴッドハンドの外科医や遺伝子治療の権威、仙人のような東洋医学の神の手治療家、画期的創薬の天才研究学者、類いまれなる超能力を持つカリスマ的ヒーラーや修験行者、シャーマン、宗教家などほんの一握りの限られた者のみが神業まで辿り着きます。
それでも神や仏ではないので万能ではあり得ません。
勿論、私自身もゴッドハンドではありません。
また、因果は川の上流や下流の話にも例えられます。
川の上流部が汚い水であれば下流部をいくらきれいにしようとしても下流の水質は変わらず汚いままであるのと同様に、より上流の原因を解消していかないといくら下流の対症療法をやっても、いつまでも治らずに繰り返してしまいます。
まず、下流の対症療法とは、マッサージや症状に対する投薬など機械論的な対処法といえます。
次に中流域の原因を扱う療法としては、現代西洋医学、伝統東洋医学、カイロプラクティック、その他代替医療、スピリチュアルや波動系医療といえましょう。
これらは上流に近い中流から下流に近い中流までグラデーションになっております。
そして、上流の原因とは、顕在的な目に見える悪い心癖(認知の歪み、性格、三毒)や生活習慣不良(姿勢、運動、食事、睡眠、呼吸)、体質不良、生育環境不良(育ち方、親、友人等との関係性、学校、職場などのコミュニティーの人間環境、立地など住環境)、天候など自然環境といえましょう。
神業を扱えるほんの一握りの医療者が上流の原因の改善にまで到達できます。
さらにその奥の最上流の原因とは目に見えない密なる領域、心理学的には潜在的深層無意識、仏教的には因縁(未那識)や無明(心の闇 迷い)、キリスト教的には運命、医学的には遺伝子、物理学的には宇宙、素粒子、量子といったものといえましょう。
手前味噌ですが、最上流の因縁は密なる大乗利他修行(自力)と大いなる真如のみ仏の智慧と慈悲の功徳(他力)によって浄めることができるものと信じます。
7 癒しと救いの違い
自分の経験上、スピリチュアル系(霊感商法やニューエイジなど)や悟り系自己啓発、自己実現セミナービジネス、占い当てもの系などは似非が大半なのですが、反面、対症療法的ではありますが、確かな癒しもあります。
しかしながら、そのほとんどが観念の範疇に留まっており、真実なる実践道がそこにはありません。
また、その背後には狐霊や蛇霊などの低級霊がバックにいて、自称霊媒や主宰者自身も能力だけで霊格が備わってないことがほとんどで、審神者もおらず、そもそもできないので霊界からのメッセージを正しく解釈して正しく伝えることができません。(大概、世俗的な浅い指導だけに留まります)
よって、霊的救い(心魂の本質的な因縁切り)まではありませんので一時的に良くても次第に必ず行き詰まります。
また、何にも頼らず自力の瞑想修行で深遠な精神世界を読み解いていこう、独力で人生を切り開いていこうという自己実現的在り方(縁覚的在り方)も姿勢は立派ですが、これも経験上、残念ながら因縁通りに行き詰まります(輪廻)。
他力も宗教哲学的にはとても崇高ですが、他力本願だけで反省や努力精進がない在り方も行き詰まります。
肚を決めて人事を尽くして天命を待つ。
自力と他力のバランスこそが大事ではないでしょうか。
道(真理)を求めることは人間的に苦しみが多いことではありますが、道(真理)を求めないことはさらに苦しみが多いのですよ、と私の敬愛する師は仰せられました。
昨今はカルト(セクト)の影響で世界的に宗教離れ(末法の世を釈尊が予言)が著しいですが、この世に涅槃の真理は確かに存在し、真の宗教には真の救いがあると信じます。
真の救いとは悟りと一体と頂いております。
8 運命を切り開く道(真理)
運命を好転させ、切り開いていくには受け入れ、感謝、お委せの祈りで覚悟を決めて決断、実践して因縁を切っていかなければ堂々巡り(輪廻)になってしまいます。
理論的、哲学的な究明や思索(声聞など観念だけのあり方)だけの在り方や禅・瞑想だけのあり方(自力)だけでは因縁は切れませんし、涅槃の真理の体得(肚落ち)にはたどり着けないのではないでしょうか。
また、自分だけ良くなりたい、まずは自分が救われたいという祈りでは因縁は浄まってはいかないのではないでしょうか。
人様をお救いする力(功徳)により自らが救われていく(因縁が切れていく)というのが涅槃経で説かれる真理なのです。
あくまで人様を救いに繋げていくという涅槃密(大乗利他)の在り方を、祈りながら日常生活に絶えず実践して生き方にまで落としこんでいって初めて涅槃の真理を頭の理解を越えたところの体解、即ちお腹に落ちた真の因縁切りとなりましょう。
以上、とうとうと偉そうに同じようなことを繰り返し繰り返し、様々な角度から手を変え品を変え述べて参りましたが、これも口で言うほど簡単ではなく、言うは易し、行うが難きです。
結局は実践出来なければ元の木阿弥で、すぐさままた因縁の眠りに耽ってしまいます。
私自身は仏道の求道者として、まだまだ未熟で精進の途上にあり、生涯、一緒に精進してお互いに切磋琢磨し、大乗で高め合える仲間を探し求めております。
そして、幸いなことに運命を変える実践道を求めていく上において、真如のみ仏様に結縁されています。
真の因縁切り、大般涅槃(常楽我浄)の真理の実践道について本気で知りたい、精進したいという方は是非当院までいらしてくださいませ。
2020年12月2日 スパイナルケア目黒 IZUMIカイロプラクティック 院長 泉山耕一郎
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